避難所の、境のないくらしで感じたのは、みんな一緒だから頑張れるということ。
避難所では一人暮らしだったため他の家族の間に入り、一緒に生活することとなった。 そこで感じたのは、自分だけではない、仲間がいるという思いだった。(女性・当時50代) 当時は学校給食の栄養管理士。 震災後は山古志に戻り、近隣の気の合う仲間(住民)とともに農家レストランを始めました。
避難所でやっと同級生に会えた喜びは、言葉に言い尽くせない。きっと一生忘れないだろう。
自宅で倒れてきた食器棚のガラスで負傷、身動きできなくなっていたところを祖父に助けられ、家族と共に避難した。 偶然だが、この年9月14日に小さな地震が2回あり、「大きな地震がくるかもしれない」と日記に記していた。 (女性・当時10代)
当時、山古志中学校3年生だった彼女が作文集に記した言葉です。
彼女は現在、歯科衛生士をしています。
学校は転校でなく間借りだったため、先生もクラスメイトも変わらず安心して過ごせました。
錦鯉を避難させたが、放す池がないんだ。養鯉を再開するまでに、2年間もかかった。
同業者の協力により被災した錦鯉を救出したが、池が破壊されて戻すことができない。 先が見えないなか、池の修復から始め、2年間は養殖ができないという苦闘の末、養鯉を再開した。 (男性・当時40代)
山古志村には、錦鯉
全村避難により錦鯉だけでなく牛など多くの家畜は集落のいたるところに取り残されたままでした。
中には、停電による酸欠や、地震の揺れによるショックが原因で犠牲となったものもあります。
川が塞がって木籠(こ) 篭(ごも) が沈むと聞いた時は、ホラ話ではないかと思った。
道路が各所で崩落、電話は通信が全て途絶したため集落が孤立しただけでなく、小さな集団で避難した住民同士も互いの情報を交換できなかった。 身の回りの情景しか見聞きしていない住民には、河(か) 道(どう) 閉塞(へいそく) など想像が出来なかった。 (男性・当時50代)
地震による土砂災害で河道閉塞が生じ(河川がせき止められ)、水没した木籠集落の住民。
この地すべりを実際に見た住民は、「山が動いた」と表現しました。
それを聞いた村長も、実際の光景
いくつかの集落は、河道閉塞によって上流からの水と崩れた土砂が溜まり、徐々に家屋が水没していきました。
また、せき止められた水と土砂が決壊し、土石流となって流れ出せば、下流にさらに大きな被害をもたらす危険が出てきます。
このため、国の直轄工事として、ポンプによる排水作業が進められました。
子どもたちは元気で、大人よりも山に帰りたいという気持ちも強かった。
ヘリコプターで大変な被害を見ても希望を捨てない子どもたちに長島村長は励まされた。 避難所や仮設住宅で環境が変わっても、楽しみを見つけいきいきと過ごす姿に大人たちは元気をもらった。 子どもたちの「山古志へ帰る」の言葉に後押しされ大人たちは帰村を決めた。 (男性・当時50代)
地震発生当時の山古志村教育長。
子どもたちは、被害の状況についてほとんど知らされず、元気がなかったそうです。
そこで当時の山古志村長は、若い世代にふるさとの様子を焼き付けてほしいとの想いからヘリコプターから山古志を見せることにしました。
上空から甚大な被害を確認した子どもたちは、泣きはらした眼で避難所へ戻りました。
それでも希望は捨てず、子どもたちの「山古志に帰りたい」という思いが、むしろ大人を励ますほどでした。
能登半島地震の被災者への募金口座を開設しました
第四北越銀行
銀行コード0140
長岡東支店
店番号049
普通預金
口座番号6318876
口座名義
やまこし復興交流館能登半島地震募金
全村避難、それは「やまこし再生」に向けた始まりだった。ー長島忠美
当時の山古志村長。 2017年8月死去
私はよそじゃ暮らせない。ここで生まれて山古志の土になる。-酒井省吾
前山古志村長
取りまとめ:やまこし復興交流館 おらたる
2013年度行った聞き取り及び、作文集「38人がみた新潟県中越地震」を元に再編集しました。
やまこし復興交流館おらたるでも、能登半島地震に関する募金活動を始めております。
お振込口座につきましては、ただいま開設できるよう準備を進めております。準備出来次第、ご案内いたします。
山古志十年の記録
地震発生から全村避難
全村避難から避難生活
帰村そして未来へ
新しい取り組み
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